子供の頃の自分からの伝言1
子供の頃に思っていた事を書きたいと思う。
なぜか分からないけど、子供の頃の自分が凄い言って欲しいみたいで。書いたら気持ちが成仏出来る様な気がする。
一つじゃないから、何回かに分けて書く予定だ。
今回は、私が子供の頃、大人って子供の事を子供扱いし過ぎだと思っていた。
あと、早く生まれたからって偉そうにしていて、ムカついていた。笑
子供の時にして欲しかった事は、子供を子供というレッテルを貼って見ないで、きちんと1人の人間として接して欲しかった。
人と人、お互い尊重し合う関係が本来理想の状態なのに。大人は、それぞれの人間の上にレッテルを貼って、そのレッテルで上下を決めて態度を変える。
何の疑問も感じないでそれをやってる。
肩書き、レッテル、成果、とか、表面に現れている事だけで、判断をすると、何か大切な物を見失ってしまうと思った。
だから、言葉に縛られてしまわないで、その人そのままを見る感じる。そういう事を大切にした方が、もっと、スッキリ、明るく世界はなるのではないかな?
人間、生命、表面に現れている以上に奥行きのある、深い存在なのではないかな?
そんな事を思っていた。
考えても分からない事
子供の頃から、ずっと考えている事、
私のいる社会において人間て、
生まれて、成長して、学校行って、大人になって、働いて、結婚して、子供作って、育てて、年てを取っ、死ぬ。
なんとなく、社会ではこれを人生って言っていて。
人はこのレールを進めば正解みたいに共通認識としてあると思う。
その、一つ一つの内容は個々で全然違うと思うけど、もっと、シンプルにすると、人間、
生まれて、何かしら色々やって(人それぞれ内容は違う)、死ぬ。
って事で、この事に一体何の意味があるんだろう?
小学校の学校帰り、空を見上げて、こんな事考えながら歩いていた。
だって、これの答えが分からないのに、目の前の事に必死になってる人が不思議だった。
人間が生きてる理由もわからず、何年も生きている、人間って存在が不思議で不思議で。
ある日、お母さんに聞いてみたの、子供にとってお母さんは神みたいな存在でしょ?きっと答えを知っているって信じていて
私「お母さん、何の為に人は生きているの?どんな意味があるの?」
お母さん「さあ、何でだろうね。本で偉い人が”人生とは目の前の事を一個ずつやっていく事だよ”って言ってたわよ」
みたいな曖昧な返答が帰って来た。
お母さんの答えを聞いて、凄いショックを受けたのを覚えている。
え?大人って、人間が何で生きているのか知らずに何十年も生きているの?
そういう事?え?え?って、本当にショックを受けた。
それと同時に、大人を馬鹿にしてしまった、大人って、子供に対して偉そうにしているくせに、人間が何で生きているのかも知らないで生きている、その事に疑問すら持つこともないなんて、おかしいよ。一体なんなんだ~と、謎は深まるばかりだった。
小学生だった私も今ではもう42歳。
未だに、その答えは分からないけど、その疑問はずっと、問いかけ続けている。
小学生の時の自分はビックリしてるかもね。
「答えも分からない謎の人生ってやつを42年間もやっているの私?何かわかった?」
答えはまだ分からないけど、色々体験して、人生意外と楽しいよ。体験、体感するのが面白いのかもね。それに、何の意味があるのか?意味ないんじゃないのかな?考える類の事ではないのかもね。。
でも、未だに、こういう意味のない事を考えるのは楽しくて好きである。
チヤホヤ、キャーキャー言わなくてもいいでしょ
好きな人とか出来事に対して、チヤホヤしたり、キャーキャー騒いだりするのって、愛だと思われていることがあるけど。全く違う事だと思う。
じゃあ、それは何かっていうと、エゴの快楽みたいなもの。
その、騒いでいる対象が、自分の意にそぐわない事をしたら、その思いは、あっという間に憎しみ、無関心に変わる。
別に、好きな人とか、事に対して騒ぐ事が悪いって思っている訳でなく、それを愛だと思っていると、その気持ちが覚めた時に、ガッカリしたり、落ち込んだりしてしまう。
元々、そういう熱狂的な思いがエゴ的快楽って理解していれば、楽しむ時に楽しんで、覚めてしまったら、そんなものねって終わり。憎しみに変わったりしないと思う。
何でそんな事を考えたのかっていうと、昨日、甥っ子の子守をしていて、私は普通に甥っ子の事可愛いと思っていて、普通に接しているの、
なのに、
先日、叔母に”あなた、自分の甥っ子なんだから、もっと可愛がりなさい”って言われて、ムカついたの。
多分、叔母的には、キャー可愛いでちゅね~!みたいな反応をする事が可愛がっているって認識なんだと思う。
私は、普通のテンションで甥っ子に話しかけているから、可愛がっていないと判断したのだろう。
で、私が思うのは、女性で赤ちゃんに対して、キャーキャー言うのって、ちょっと演技入ってるんじゃないのかな?って。(もちろん、心から思っている人もいると思う、でも、2~3割盛ってる人も多いはず)
だって、なんか、そうしないと冷たい駄目な人間って感じで思われそうで、ちょっと
罪悪感が出る。怖いですよね。いい人でいたいしそう思われたいですよね。
愛って、もっと、落ち着いてて、そのものの存在を信頼し、許している状態なんだと思う。
と、今日はちょっと愚痴ってみた。
撮影ボックス
作品の撮影をしようと思って、ネットで調べて撮影ボックスを自作しました。
↑100均で売っている、組み立て式のマガジンラックと白いアミ?みたいなの。
↑こちらも、100均で買った結束バンド
これで、パーツを固定します。
↑プラダンを奥の壁と天井につけて、これは、もしかしたら要らないかも。
↑後ろに画用紙を敷いて、完成
↑とりあえず、こんな感じ。
↑テストでスマホで撮ってみた。
ライトが白熱球色なのと、画用紙がシワが、、、
とても使えるクオリティでないですね( ;∀;)
器に対して、箱が小さい気がするので、箱型を辞めて、スクリーンにしようかと、ただ今、色々と調べています。
目標は、今月中に、作品の写真撮影をして、インスタと、ホームページをつくる事!
まだまだ、先は長いが、楽しくやって行こう。
色々と実験ですね。(^^)
評論家から愛好家に
芸術の評論家って、正直いらないと思うんですよね。
評論家の人が、悪いのでなく、受け取る側が、その評論家の言葉を鵜呑みにしてしまうから。
芸術って。言葉で表現出来ない事を表現していて、何が一番大切かって。
それを見て、聞いて、経験して、
感じる。
これが全て。
同じ作品を経験しても、人それぞれ、違った感じ方をする。
それなのに、例えば、美術館で絵画作品を見た後に、作品の横にある、評論家の説明を読んで。
その評論家一人の、1つの意見を、正解だとして自分の中に取り入れてしまう。
美術館を出る時には、作品を見た感動よりも、その作品に関する情報を沢山覚えて帰る。。
そんな人が多いのではないかと、私は思う。
アートが難しくて分からないって、本当はない。
その作品を見て、貴方が何を感じたか。
それが答えだから。
逆に、何も感じないって事は、普段から、頭で考え過ぎて、自分の感情を無視してしまっているのかも。
それで、私が考える解決策は、
評論家という言葉を無くして、愛好家にするの。
そして、評論の前に必ず、
無限にある作品解釈の中の、一つの意見に過ぎませんが、、、
って言葉をまず入れる。
評論家の人が悪いのでなく、一般の人が、直ぐに誤解してしまうから。自分で感じ考える力を他人に渡してしまうから。
その方が一見、楽ですからね。
でも、そうやって生きてると、人生つまらなくなってしまうと思う。
皆んな、人それぞれ、素晴らしい感覚を持っているから、一人一人、自信を持って生きていく。
その、貴方の感じる感覚は、とても尊いものなのです。
唯一無二のその感覚大切にして下さい。
と思いました。
これも、私の考える、無限にある、人生に対する解釈の一つです。
piccollili名前の由来
スタートするブランド名、
piccollili(ピッコリーリ)
の名前の由来ですが、頭に閃いた響きで、特に意味はない様な、何故か、piccollili、って来るんですよね。。
こういう直感大切にしたいな、って思ってpiccolliliになりました。
造語だけど、元はpiccolliってイタリア語の小さいって意味から来ていると思う。(自分で作っておいて思うってくらい)
あと付けだけど、意味を考えると、
昨年3月に初めて陶芸教室に行って、陶芸を始めて、凄く楽しかったんです。で、なんか、轆轤やり始めた頃に、なんか、これだな~って感じがして。
ずっと、陶芸やっていきたいな、と思いました。
それで、今まで、色々と好きなこと見つけて、初めては辞めるを繰り返してきて、ある自分のパターンがある事をずっと知っていて、今回はそれは避けたいと思ったんです。
今までの私のパターン。
ステップ1
何か好きになってスタートする。
最初は、その事が好きでやっている。うわー楽しい~これだ!って思う。
ステップ2
その事で、成功しようとか、凄い人になろうとか考え始める。
ステップ3
成功する為に、頑張る。
成功する為に、とか、凄い人になる為に、その事をする様になる。
ステップ4
自分の理想(成功とか凄い人になる)になかなか到達出来ない。
ギャップに苦しむ。
その事をやるのが苦痛になる
ステップ5
その事が嫌になり辞める
私の人生、42年間ずーっとこの繰り返し。
色々やりました。
絵、彫刻、絵本、シナリオ、アニメーション、合気道、etc
で、もうこのパターン踏むの嫌だなって心底思ったんです。
せっかく好きで、その行為が楽しくて始めていたのに、
謎の、成功したいみたいな欲のせいで、純粋に楽しかった行為がつまらないものになってしまう。。。
あほくさ~。って思って。
今回、久しぶりに、やって楽しい~って思えるものに出会えたので、もう、変な欲を出して、純粋に楽しむ行為を、失くしてしまう様な事はしたくないって思いました。
私は、歌ったり、踊ったり、絵描いたり、表現する事って、原始的な喜びがあると思うんですよね。上手い下手、関係なく、行為自体がもう結果っていうか。
本来、人間ってその喜びの為に表現をしているはずで。
で、その喜びって、感覚を純粋にしていないと感じれない、小さな喜びなんです。
私が今、陶芸をやっていて感じる喜びも、この喜び。joyって感じ?ワクワクとか。
今回は、この小さな喜びを大切にしたいって思いがpiccolliliという名前には入っていると思います。
でも、小さいっていったけど、入り口はちいさいけど、無限に広がる喜びでもあります。現代社会の頭で考える世界だと、凄く見失いやすいもの。
なので、
私の陶芸活動においての目標は
何も目指さない!ただ、作る事を楽しむ、以上。
です。
piccolliliの由来でした~。
始めの一歩が踏み出せないクリエイターの方に
私は、子供の頃から、絵を描いたり、ものを作ったり、する事が好きです。
なので、今まで、自分で色々な作品を作っていました。
イラスト、絵本、シナリオ、陶芸、etc。。
それで活動したいと思っても、怖くて踏み出せないでいました。
自分の人生なんかこう、、パッとしないな~ってずっと思っていて。。
でも、怖くて、、、ずーっと同じ場所でモヤモヤしていました。
大体、15年位かな、モヤモヤしていたの、モヤ歴15年のベテランでした。
それで、もう、モヤモヤに疲れて、もうモヤモヤいやだな~って心底思って、
そして、仕事の区切りも良くなる今年の2月で会社を辞めて、これからは、もっと好きなことやって生きていくぞ~!と決意をして、
今年の3月から少しずつ、やりたい事、やりたかった事に取り組み始めました。
3月中旬頃に行った、女性起業家向けのイベントで、無料で占いをやって貰えるスペースがあって、整理券ラスト1枚をゲットできたので、占い師の方に、今後の事を聞いてみました。
※その方、タロット&神の言葉を下す?占いをされていました。怪しくてすいません。(笑)
そこで言われた事が、
占い師”あなた、冷蔵庫の中に、ほとんど完成しているホールケーキが沢山あるの、あとは、イチゴを載せるだけで完成なのに、あなたは、それを出していない。早く、イチゴ載せて出して”
これ、凄い当たっていて、私、イラスト描いたり、絵本描いたり、4コマ漫画描いたり、シナリオを書いたり、陶芸やったり、色々やっていたんです。(色々やりすぎ(笑))
でも、何処にも発表していない状態でした。
何故かって、発表するのが怖いから。
ショボい作品見せて、人から馬鹿にされるのが怖いから。
で、質問をしたんです。
私”あの~、確かに、出来てたり、もう少しで完成する作品とかあります、でも、怖くて世の中に出せないです、どうしたらいいですか?”
その答えが
占い師”適当にやってって”
いや~、これ、凄くないですか?この言葉は本当に、私にとって、ドストライクな言葉でした。(笑)
私、世紀の大傑作が出来てからでないと、作品とか発表してはいけないって思っていたんですよね。
お前、誰だよって感じ。
そんな事していたら、一生何処にも作品出せずにモヤモヤして終わってしまう。そうだよな~、適当で行ってみようかな~って大分ハードルが下がった瞬間でした。
なので、そこの、怖くて、一歩踏み出せない貴方!
適当にやりましょう~!
結局、自分自身が、他人をジャッジしている事が、自分に返ってくるので、あんまりクオリティーとか高くない作品とか目にすると、ウワーダサい。とか普段から、自分が思っているんですよね。性格悪いわ自分。という事にも気づき。
まず、自分の作った物、事を世に出せる、勇気とパワーって凄いな~、と思うようにしています(まだ、最中)
あと、上手くなるコツって、下手なうちから、人に見せていく事って聞きますよね。
凄い怖いけど、一歩踏み出してみよう。
そう思いました。
でも、やっぱり怖いな~。何なんだろう、この恐怖は。。エイヤー!っと気合で乗り切ろう。でも、こわい。。。( ;∀;)